建築脳箱

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96 リアクション

k-nakama:

1923年(大正12年)91日の関東大震災は、

帝都(東京)に計り知れない被害を与えました


その復興計画の策定と、事業の推進のために、

帝都復興院が創設され、

当時、副総理格の内務大臣であった、

後藤新平が、総裁を兼務することになります


この時の計画は、

焼失区域の全域を一括買収し、

新しい都市計画のもとに、新しい東京をつくり、

その後、それを払い下げまたは貸付ける、

というような、壮大なものでした


そして、これらは、

もしも、あの時、

原案通りに実現されていたら>

などと、

今なお、何かあるたびに、語られたりするような、

すぐれたものであった、と言われていますが、

結局、

当時の経済状況に合わなかったのか、

「大風呂敷」との批判を受けて、

後藤にとって屈辱的とでも言えるような、

大幅に縮小されたものへと、

変貌してしまうことになります


それでも、

いくつかの事業は行われ、

現在の東京の骨格をつくることにはなりました


昭和通りの実現、隅田公園の誕生、

不燃構造の小学校建築、

同潤会による鉄筋コンクリート造のアパート、

等々

http://knakama.seesaa.net/article/388077229.html




そして、

震災で多くの橋が被害を受けたことから、

それらの橋、いわゆる震災復興橋梁を、

計画的に架ける事業を行うため、

復興院橋梁課が創設されたのも、

そうした事業の一つでした


建築家、山田守は、この時、

その復興院橋梁課嘱託として、

いくつかの橋を手掛けることになりました


http://knakama.seesaa.net/article/388077185.html



彼が、その時手掛けたものの一つが、

この聖橋


曲線・曲面を用いた、

流麗で、ダイナミックな建築をつくり続けた、

山田守ですが、

ここでもブレることなく、

グニャリと曲がった、大胆な放物曲面


今なお、

個性的な、街のシンボル…。


復興事業とはいえ、

100年後の都市景観にまで届く、豪快なアーチ

45 リアクション

k-nakama:

夏目漱石は、実は、
建築家になりたかったのだそうです

こんなことを書いています。

156歳の頃のこと

「何か好い仕事がありそうなものと考えて日を送って居るうちに、
 ふと建築のことに思い当った。
 建築ならば衣食住の一つで世の中になくて叶わぬのみか
 同時に立派な美術である。
 趣味があると共に必要なものである。
 で、私はいよいよそれにしようと決めた」

しかし、ご存知のように、そうはなりません
そのいきさつというのが

「ところが丁度その時分(高等学校)の同級生に、
 米山保三郎という友人が居た。
 それこそ真性変物で、常に宇宙がどうの、人生がどうのと、
 大きなことばかり言って居る。
 ある日此男が訪たずねて来て、
 例の如く色々哲学者の名前を聞かされた揚句の果に
 君は何になると尋ねるから、実はこうこうだと話すと、
 彼は一も二もなくそれを却けてしまった。
 其時かれは日本でどんなに腕を揮ったって、
 セント・ポールズの大寺院のような建築を
 天下後世に残すことは出来ないじゃないかとか何とか言って、
 盛んなる大議論を吐いた。
 そしてそれよりもまだ文学の方が生命があると言った。
 元来自分の考は此男の説よりも、ずっと実際的である。
 食べるということを基点として出立した考である。
 所が米山の説を聞いて見ると、何だか空々漠々とはしているが、
 大きい事は大きいに違ない。
 衣食問題などは丸で眼中に置いていない。
 自分はこれに敬服した。
 そう言われて見ると成程又そうでもあると、
 其晩即席に自説を撤回して、又文学者になる事に一決した。
 随分呑気なものである」

この米山保三郎という友人のせいもあってか、
建築家夏目漱石は、実現しませんでした
うーん、残念

ただ、まあ、
建築にとっては、残念なことではありますが、
その後の業績を見てみると、
これでよかったような気もしますね

この米山保三郎という人は、大変な異才であったそうで、
彼に会って、正岡子規も、
哲学の道を諦め、文学へと進んだのだそうです

米山保三郎自身は、
その才能にふさわしい業績を残す前に、
若くして亡くなってしまったそうですが、
こうしてみると、
文学への功績は計り知れないものがありますよね

ところで、
そうして建築家への道を諦めた夏目漱石には、
悪妻説で有名な、鏡子という夫人がいました

そして、
その鏡子の妹、時子と結婚したのが、
建築家、鈴木禎次でした

彼は、つまり、
夏目漱石の義弟にあたります

http://knakama.seesaa.net/article/388077155.html

面白いのは、
この鈴木禎次は、
漱石が建築への道を諦めた、
ちょうど同じぐらいの年頃には、
文学を志していたのだそうです

その後、道を変え、
当時の帝国大学造家学科(現在の東京大学建築学科)へと進み、
東京駅の設計等で有名な、辰野金吾から学びます

夏目漱石と鈴木禎次は、
ちょうど交錯するような道を進み、
義兄弟になったわけですね

家が近かったこともあり、
両者は親しく行き来していたのだそうです

また、入れ違いのようにして、
英国へと留学したりもしています

何とも、
不思議な巡り合わせを感じてしまいます

その後、
帰国した鈴木禎次は、
新設された名古屋高等工業学校
(現在の名古屋工業大学)に、
教授として赴任します

そして、その地で、
多くの建築をのこしていきます

ということで、
その建築は、東海地方がほとんどのようですが、
横浜にもあります
というか、ありました

横浜松坂屋本店です
元々は別の人の設計だったそうですが、
増築時に鈴木禎次が担当したのだそうです

このような外観となったのは、
彼の手によるとのことです

「横浜の戦前のデパート建築を文字通り代表するものであり、
 我が国の昭和初期のデパート建築を代表するものの一つとして
 大変貴重なものである」


外観的な最大の特徴は、
「全面が白い四丁掛のタイルで覆われ、
 かつ要所にきわめて濃密な意匠を施されたテラコッタが
 配されていることである。
 その意匠はわが国のアール・デコの代表例とも見なしうる」


とのことで、
「横浜歴史的建造物」に認定されていたはずなのですが、
結局、取り壊されてしまいました

その後、跡地には、
「外壁に旧松坂屋の雰囲気が残されている」という建物が、
出来上がりましたが、
そんな風に、「そっくりさん」を連れてくるぐらいなら、
元の建築を活かす道を探れないものなのか、
と思わずにはいられませんでした


とは言え、今となっては、
写真と記憶の中にしか存在しない建築